薩摩焼きとは

- Kagoshima-city, Kagoshima

鮫島佐太郎窯の小皿。黒光りする漆黒の土肌が美しい。

薩摩焼とは、豊臣秀吉の2度目の朝鮮出兵(慶長の役 / 1957年)時に、薩摩の勇将・島津義弘が連れ帰った陶工たちが、祖国をしのびながらその技術を生かし、生活の糧のために焼いた器をルーツに、410年の歴史の中で磨かれてきた焼き物のことを指す。彼らが薩摩の山野に求めた原料で、薩摩の人々の暮らしのために焼いた器は、やがて美しい国焼(くにやき)として根付いていった。また島津家は、代々苗代川(現・美山)の技術者を手厚くもてなし、士分を与える代わりに、姓や言葉を変えることを禁じるという独特の政策をとったことで、一層、地域の個性が際立っていった。

15代沈壽官の茶碗。金襴手で描かれた夫婦雛が雅だ。
沈壽官窯の庭内に置かれた、黒薩摩の瓶。江戸時代に焼かれたもの。


薩摩焼といえば、鉄分を多く含む黒い土を用いた、どっしりした焼き物を思い浮かべることが多いが、寛永年間(1624~1644)に入り、指宿で白土が発見され、白物と呼ばれる白薩摩の生産が始まると、次第に生産量が増えていく。天明年間(1781~1789)には白物を焼く窯が藩の御用窯となり、白物は一般の使用が禁止されるにいたる。

白薩摩は陶磁器の性質を備え、焼き上がった白い生地に美しい細かな貫入が入る、透明釉が特徴。時代が下ると、金、赤、緑、紫など、華麗な絵付けを施した、色絵や錦手も多く焼かれるようになり、華やかさを増していく。

対する黒物(黒薩摩)は、脈々と民窯で焼かれ続けた。文化年間(1804~1818)には苗代川で盛んに、瓶、壺、蒸籠など、黒物の日用雑器が作られる。わかりやすい例では、黒ヂョカと呼ばれる焼酎注ぎは、ほとんどが黒薩摩である。重厚な生地と、深みのある色合いと艶が特徴で、民陶としての魅力を色濃く残す。
また、陶工達は、苗代川窯のほか、竜門司窯、堅野窯など、いくつかの地域に別れ、窯の系譜を形成していった。今回訪れた沈壽官窯と佐太郎窯は、いずれも苗代川の系譜だ。


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