波佐見焼とは

Higashisonogi-gun, Nagasaki

長崎と佐賀の県境近くに、古きよき日本の景観をそのまま残す町、波佐見。400年の間、一度も窯の火を絶やすことなく守り続けてきた、正真正銘の焼き物の郷だ。早くから高級磁器に徹した隣町の有田の陰に隠れて、その名が前面に出ることはなかったが、実は日本の食卓を豊かにすることには大いに貢献してきたのである。今回は、長尾智子さんが器作りのプロジェクトを通して懇意にしている、波佐見のオーガナイザー、堀江陶器の堀江正明さんに、案内してもらった。

波佐見焼の歴史をたどる。

波佐見焼の起源

慶長4年(1599年)に、当時の藩主・大村善前が、朝鮮より伴った李祐慶兄弟らの陶工を筆頭に、波佐見町村木の畑ノ原、古皿屋、山似田の3箇所に、連房式階段状登窯を築き、焼き物を作り始めたのが、その歴史の始まりと言われている。

上左:永尾郷にある智恵治窯跡。
上右:波佐見の中でも最大級の窯跡、中尾上登窯跡の説明書き。1644年に建立され、昭和4年に廃窯となるまで、青磁、白磁、色絵などさまざまな器が焼かれ続けてきたことが記されている。
右:窯の神様を祀った石碑。
 

陶器から磁器へ

波佐見焼といえば、今日では、一般的には青磁と染付を指すが、開窯当初は、土ものの施釉陶器を生産していた。その後、村内で磁器の原料が発見され、次第に染付と青磁を中心とする、磁器の生産へ移行していった。

陶磁器会館に展示されている、1600年代~1700年代の湯呑み。多くは、窯跡から発掘されている。
 

三股青磁の隆盛

作られるようになる。三股古窯跡、三股青磁窯跡で焼かれたそれらは「三股青磁」と呼ばれ、技術の高さと美しさは、当時の国内最高水準であり、今でも、日本を代表する青磁と言って間違いない。

典型的な優美な三股青磁の鉢。深みのある釉薬の色と中に描かれた花の文様が美しい。
 

海外への輸出と藩の擁護

1650年代に入ると、中国の内乱によって、諸外国への中国産焼き物の輸出が中断され、代わって日本の焼き物が盛んに輸出されるようになる。大村藩も皿山役所を設置し、藩の産業として磁器の生産を擁護し、江戸後期には染付の生産量では日本一になった。

 
くらわんか碗として出荷された碗が、今でも、まだ、古窯跡から見つかる。

国内への出荷 くらわんか碗

1660年代に中国の内乱が収束し、焼き物の輸出を再開すると、海外からの受注が減り、それにつれて波佐見では、国内向けの品を多く産するようになる。それらは、厚手で割れにくく、唐草模様を筆で簡単に描いた、"くらわんか碗" と呼ばれる日常食器が主だった。それは、磁器は手が届かないものという当時の常識を覆して人気を博し、庶民の食文化を大きく、豊かに変えたいった。

 
ひなびた坂道に沿って造られた煉瓦のガードレール。手すり部分は、さまざまな柄を絵付けした磁器で彩られている。

現代まで
絶やされることのない窯の火

明治期に入り、皿山役所が廃止され、藩の保護がなくなると、窯元や職工には困難が強いられるようになった。しかし、その後も常に新しい技術に取り組みながら、決して窯の火を絶やすことなく、日常を豊かに彩る食器を作り続けてきたのである。1978年には、波佐見焼も国の伝統工芸品に指定され、その意義が広く認められるようになった。

 

くらわんか茶碗

陶芸館に展示されているくらわんか茶碗や皿の数々。江戸時代に作られていた作品のレベルの高さがよくわかる。

江戸中期以降、大村藩の指示で盛んに作られた、磁器の飯碗のことを指す。磁器とはいえ、土もの風の少し粗い素地に、筆で簡素な唐草文様が描かれているのが特徴だ。江戸期の当時、大阪と京都を結ぶ淀川を行き来する乗合船の客を相手に、飯や酒を売る煮売り船という商売が繁盛した。「酒くらわんか、飯くらわんか」の賑やかな掛け声とともに、素朴な丸みを帯びた碗に、酒も飯をてんこ盛りにして売ったそうで、それにちなんだ名前というわけだ。安価でしっくり手になじみ、盛られた食べ物を引き立てる、まさに用の美を体現した碗。それはまた、当時の波佐見が、使い捨てができるほどの生産能力を誇ったことを証明するものでもある。

 

コンプラ瓶

欧州に輸出されたコンプラ瓶。描かれた文字から、写真は酒瓶。今見てもモダンなフォルム。

もう一つ、江戸期の波佐見焼の繁栄を象徴するものに、コンプラ瓶がある。それは、当時、唯一海外に開かれていた出島から、酒や醤油を詰めて輸出した瓶のことだ。長崎のコンプラ仲間(ポルトガルのコンプラドールからきた言葉で、仲買の意味。略字CPDは日本初の商標)。通称コンプラ瓶と言われるどっしりとした独特の形状の磁器の瓶に酒と醤油を詰めて運ばれた。瓶のデザインは欧米からの注文によるもので、醤油瓶にはJAPANSCHZOYA(ヤパンセ・ソヤー=日本の醤油)、酒瓶にはJAPANSCHZAKY(ヤパンセ・サキー=日本の酒)と描かれている。明治7年、233年続いたコンプラ仲間は解散したが、コンプラ瓶の生産は大正期まで続いた。

 

現在の波佐見 陶器の町波佐見の成り立ち

瓦屋根の合間から、何本もの煉瓦造りの煙突がのぞく、ひなびた焼き物の町。

いりくんだ坂道を上り、高台から見下ろ
せば、瓦屋根の間に、大正から昭和初期にかけて作られた煉瓦の煙突が何本も突き出ているのが見える。波佐見の中でも中尾郷という地域は、世界最大級・最古の登窯が発掘された場所。現在も波佐見町全体で約100軒、中尾郷だけで18軒の窯元があり、就労人口の半分くらいは、なんらかの形で陶磁器生産に関わっているそうだ。どんなに窮地に立たされようとも、窯業以外の産業に消して手を染めようとしなかった、誇り高き陶工の町なのである。
磁器の生産が主な波佐見では、土作りから実際の商品として流通するまでの過程には、陶土屋、型屋、生地屋(轆轤師)、窯元、絵付師、商社と、さまざまな職業が存在する。これは、上質な日常食器という波佐見の伝統を支え、しっかり守るための役割分担であり、産業構造でもある。作家からの発信が生産を牽引する、例えば唐津のような窯業とは対局にある波佐見では、消費地のニーズを噛み砕いて陶工に伝え、陶工の光る部分を汲み上げて形にし、消費地に届けるという、従来の商社より一歩進んだオーガナイザーの存在が重要になってくる。
堀江陶器の2代目、堀江正明さんは、まさにその役割を担っている。作り手と消費者のニーズをダイレクトに結びつけ、広く愛される上質な日常食器を作ることができる。これが、波佐見の今であり、強みであるのだ。

 

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