唐津焼とは

- Karatsu-city, Saga

唐津焼の発祥

亨保19年(1734年)に坊主町に移された御茶盌窯。大正13年まで、実際に使用されていた。

唐津焼のことを知るには、まず、その歴史を学ばねばなるまい。しかしながら、唐津焼の歴史は今なお謎に包まれている部分も多く、さまざまな学説があり、それすら磁力のように人を惹きつける。一般に九州の焼物は、秀吉の文禄・慶長の役で連れ帰られた陶工たちが各地に窯を築いたことにより発祥し、独自の発展を遂げたとされる。しかし、唐津の岸岳地方では、朝鮮出兵以前に北朝鮮や南中国より陶技が伝えられ、登り窯で施釉の焼物が焼かれていたと言われている。とすると、唐津焼は九州ではいちばん古い焼物だとしても過言ではないだろう。また、「唐津焼」の名は、佐賀県の西部から長崎県一帯で焼かれた器を唐津の港から出荷したことによるというのが定説だ。

棚の下段の右の絵皿と真ん中の茶碗が桃山時代の古唐津。

古唐津の最盛期

朝鮮出兵後に、岸岳城主が秀吉によって追われたことで陶工は離散し、唐津焼の中心は現在の伊万里市にあたる地域へ移っていった。それら岸岳の陶工と、肥前各地へ渡来した李朝陶工や亡命明陶工の多くが伊万里市の南「椎の峯窯」に集まり、さまざまな古唐津を焼くにいたった。そして、この時期に、斑唐津、朝鮮唐津、絵唐津など、後世に続く技法はほぼすべて完成し、古唐津は最盛期を迎えるのである。

後期唐津(献上唐津)へ

しかし有田で白磁石が発見され、白磁が焼かれるようになり、初期伊万里が登場するようになると、人気は取って代わられ、古唐津の需要が減り、次第に衰退していく。そして本来は、ざっくりした砂目が魅力の唐津焼であったが、藩主の献上品としてきめ細かい磁器に近い京焼風のものが焼かれるようになる。これが後期唐津のおこりで、二彩唐津や三島唐津という江戸期の唐津焼に発展していく。

唐津焼の特徴

唐津焼の特徴の一つである多様な作風は、古唐津の最盛期である伊万里時代に、すでに200もの窯が築かれ、それぞれに個性豊かな焼物を作っていたことに起因する。その中で完成された唐津焼の代表的な技法を列記してみる。
 

● 絵唐津
唐津焼を代表する技法で、鬼板という鉄分の多い顔料で、草、木、花、鳥などを、素朴でのびのびとしたタッチで描いたもの。

● 朝鮮唐津
黒や飴色の鉄釉をかけた上から、白色の藁灰釉を流し、釉色の変化を楽しむもの。同じ技法で掛け分けといって、2色の釉薬を流し分けたものもある。

● 斑唐津
白濁した藁灰釉をかけたもので、全体が乳白色の表面に、粘土のなかの鉄分や燃料の松灰が溶け出し、青や赤や黄色の斑点が現れるために、こう呼ばれる。

ほかにも、表面が白く粉をふいたようにみえる粉引き唐津や、印花紋、線彫、雲、鶴などの文様など、象嵌の一種を施した三島唐津、素地に黒飴釉をほどこした黒唐津、釉薬をかけないで焼成した備前唐津など、さまざまな技法がある。

左:土平窯のアトリエで。斑唐津の雰囲気のある湯呑みが並ぶ。
下左:奥が土平窯の雪月皮鯨ぐい飲み。右2つが中里太亀作の焼き締めぐい呑み。

唐津焼の土の秘密

ともあれ、焼物に"味"というものがあるのだということを教え、陶磁器における“和風”とは何かを示してくれたのが唐津焼だ。なにしろ、焼き物の原料である土そのものの個性や質感を吟味する「土味」とは、唐津焼に端を発する、日本独特の美意識だという。ざんぐり、からり、など独特の言い回しもその現れだ。
肝心の土であるが、古唐津の中心地であった「椎の峯窯」は、御用窯として献上品を作るため、多量の白土が必要で、呼子や加部島からも運んだと言われている。陶工達はこうしたさまざまな陶土や頁岩を試し、陶土を作り、登り窯で焼いた。古唐津の独特の“土味”の秘密は、この頁岩にあるようだ。そして、それが最終的には、有田の磁器につながっていくのだから、唐津焼こそが、日本の焼物の歴史を変えたといっても過言ではない。


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