選んだ器、そして盛りつけ

- serving fish, serving food

中里太郎右衛門窯の皿にさっと焼いた万願寺唐辛子と、小ぶりのトマトを盛って。
中里太亀作のそばちょこにあさりの酒蒸しを盛り、たっぷりのレモンを添える。ぐい呑みには辛口の純米酒を。
中里太亀作の黄唐津鉢にアボカドをのせた冷奴を盛り、ごまをぱらり。
藤ノ木土平作の小皿には、フェタチーズとオリーブ、さっとゆでた苦瓜、ゆでたかぼちゃと粗塩、サーモンのスプラウト巻き、ゆでた海老のディル添え、ミックスピクルスを盛り合わせて。
熊本象作の平皿には、グリルしてたっぷりこしょうを挽きかけたズッキーニとゆで豚を盛り合わせ、左奥の小鉢には、ガルバンゾーのサワークリーム和えを、右奥の小鉢にはがオクラのごま和えを盛った。

日々の食を支える器

7、8年前を思い出すと、九州で馴染みのある町といえば唐津と長崎くらいだった。ほぼ唐津のみだった、と言えるくらい。福岡空港から電車に乗り換えて直行していたのだから、その後関わりの深くなる福岡や、何度も訪ねることになった鹿児島、熊本などには失礼なくらい、ただ空港を通り過ぎるだけの旅を何度か繰り返していた。
きっかけは、取材で訪れた長崎から気まぐれで北上したのが最初で、伊万里駅から筑肥線でのんびりと、唐津に向かってみた。
唐津の町は、よくありそうな駅舎と駅前の風景なのだが、手頃なお寿司がおいしかったり、リヤカーで野菜や漬け物、花や果物を売りに来ていたり、とおいしそうな素材がだんだんと見えてくると、これは何かあるぞ、ということになる。城下町らしく、品のいいお菓子屋さんも多い。歴史のあるところから若手まで、豊かに展開されている陶器がその仕上げで、いろいろな唐津焼を目にすれば、じっくり向き合って、自分の暮しに相応しい、あるいは今以上に盛り上げてくれる器を探したくなる。ただのんびりと歩くわけには行かなくなってくるのだ。
商店街の一角、奥まったところに、玄海周辺の魚介類が盛りだくさんの魅力的な市場がある。市場と言えば、市内のあちこちで見かける、小さな小さな、市場とは言えないくらいの規模で、その日の朝穫れたばかりのささやかな量の魚介類を売っている女性達がいる。夏の朝、散歩がてら町の中心に向かって唐津城を見ながら歩いていると、やはり2、3人が道ばたに腰を下ろしてイカや小魚、えびなどを売っていて、それを顔なじみの近所の人が買いに来ているのを見かける。
穫れたての魚をさっと煮たり焼いたりして、それが当たり前のように唐津焼きの器にのり、食卓に置かれると想像してみる。くんちは有名な祭りだが、普段は地味な印象のこの町で、一歩家の外に出れば、たった今穫れた海の幸を毎朝のように手に入れることができるのだから、暮しの豊かさは、値段の高さや珍しさだけではないことを改めて思い知らされ、何とも羨ましい。
誠実に作られた器に優劣はなく、よいものであれば、必ず料理を助ける。というのが私の持論なのだが、そのお手本が唐津焼のようにも思える。和洋折衷が進んで、日本的な風情の器に料理を盛る術を持たなくなっていると感じても、いざ思い切って盛り込んでみれば、唐津焼の典型である伝統的な柄であっても、意外なくらい何でも受け入れる気がする。
もう一つ、よいものに備わる大事なことは、「可愛げ」なのだ。可愛げは大らかさでもあり、そんな器は、日々の料理をきっちりと包み込む。使うほどに馴染んで、家族の一員のようになっていくもの。いつも変わらず素材の傍らで支えるもの。一般的ではないかもしれないけれど、唐津焼のよさや本質は、そのあたりにあると思う。だから、ますます使いこなしてみたくなるのだ。

あとがき

それぞれの窯元について書こうと思っていたのに、食べ物の話に終始してしまった。そもそも、語り尽くすのは無理?なのかも。唐津焼と言っても一括りにできないのは、個々の窯元に魅力があるということでもある。大いに(楽しく)迷いつつ、その時買うもの、次にとっておくもの、いつか買いたいもの、という見方をしながら選ぶ。長くつきあって行きたいのが、唐津焼ということなのだと思う。


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